走ることについて語るときに僕の語ること

  • 2008.06.20 Friday
  • 06:06
タイトルからして村上春樹のマラソンの話だけ読んでもと思ったのだが、実際はあとがきで「自分自身について正面から語った「メモワール」のようなものだ」「エッセイというタイトルでくくるには無理がある。」「自分について語りすぎるのもいやだし、かといって語るべきことを正直に語らないと、わざわざこういう本を書いた意味がなくなってしまう。」と述べている。

個人的なことなのでと普通だと遠慮するような作家という仕事に対する思いや過去を振り返るなんてことをマラソンという切り口でなら書きましょうという内容になっている。
ファンにとっては一番聞いてみたいことでおいしい話盛りだくさんになっている。

村上春樹に興味がない人は、それはそれで小説家というものがどういうものかわかっていいのかも。

ということで無断転載を自分のメモ用に。

「長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。
〜略〜
世間の多くの人々は見かけだけを見て、作家の仕事を静かな知的書斎労働だと見なしているようだ。コーヒーカップを持ち上げる程度の力があれば、小説なんて書けてしまうんだろうと。

しかし実際にやってみれば、小説を書くというのがそんな穏やかな仕事ではないことが、すぐにおわかりいただけるはずだ。

机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生み出し、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続ける−そのような作業は、一般的に考えられているよりも遥かに大量のエネルギーを、長期にわたって必要とする。
〜略〜
小説家は「物語」というアウトフィットを身にまとって全身で思考するし、その作業は作家に対して、肉体能力をまんべんなく行使することを求めてくる」

「僕にとって小説を書くのは、峻険な山に挑み、岩壁をよじのぼり、長く激しい格闘の末に頂上にたどり着く作業だ。自分に勝つか、あるいは負けるか、そのどちらかしかない。そのような内的なイメージを念頭に置いて、いつも長編小説を書いている。」

「小説を書くのが不健康な作業であるという主張には、基本的に賛成したい。我々が小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて表に出てくる。作家は多かれ少なかれその毒素と正面から向かい合い、危険を承知の上で手際よく処理していかなくてはならない。そのような毒素の介在なしには、真の意味での創造行為をおこなうことはできないからだ(妙なたとえで申しわけないが、河豚は毒のあるあたりがいちばん美味い、というのにちょっと似ているかもしれない)。
〜略〜
息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。」

そのために肉体を鍛えることは必然であるという話ですね。
村上さんに限らず作家は想像力の極限を見出しそれを小説という形に結実させるわけでかなりハードな作業のようで、その労苦の果ての果実をペロッといただけるというあたりが読書の醍醐味でもあるわけでありがたいことです。

書いてる内容もさることながら、比喩の達人ぶり、状況を的確にとらえ理路整然と言葉に置換していく村上節横溢でそれだけで楽しめる。

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